//星合ロニー亜潮

星合ロニー亜潮

星合ロニー亜潮星合ロニー亜潮
デジタルハリウッド大学にてデザインを学ぶ。卒業後、バイク広告のグラフィックデザイナー兼カメラマンとして従事。書籍出版社にて20冊以上の書籍のDTP作業による出版に携わる。WEB制作会社にてTOSHIBAレグザ等のWEBデザインに携わった後、友人の誘いで転職。入社半年で紙媒体制作物の担当に抜擢されヨドバシカメラやビックカメラなどの大手家電量販店のカタログ、パネル、POPなど9割以上の紙媒体制作物を任され、グラフィックデザイナーとしてFREETELブランドのPRへ大きく貢献。現在はフリーランスとしても活躍中。
Design work by Ronnie Ashio Hoshiai』、『Instagram

グラフィックデザイナーでドイツと日本のハーフのロニーさん、彼のこれまでを聞いてみました。

企業広告や携帯のパッケージデザインをはじめ数多くの作品を手がけるグラフィックデザイナーのロニーさん最近では写真にも手がのびてきている彼のルーツを探るべくドイツのハイデルベルクにいきインタビューを行いました。


インタビュー取材に行ったドイツ、ハイデルベルクにて

過去やきっかけ

——もともとはドイツ生まれなんですか?
ドイツのハイデルベルク生まれで、5歳の終わりくらいに東京の青梅に家族で引っ越して生活してました。
それ以外だと目黒や三鷹、目白とかに住んだことがありますね。

——デザイナーの仕事はいつからはじめましたか?
30歳になってからだから7年前くらいからかな、それまでは車が好きで自動車整備士になろうと思って専門学校に入学して自動車整備士の資格を取得した後、1年ほどダイハツに務めてたんだけど体育会系の縦社会的なノリについていけなくて辞めてしまいました。
その後は、高校生の頃から音楽がずっとやりたくて、でもずっとやって来てなかったからバンドメンバーを探して5年間くらいはバンドでギターを弾いてました。アルバイトとか契約社員とか色々と働きながら夢を追ってた感じです。
でもバンドでやっていくのはきついなってなってきちゃって、そんなときに前々から興味があったパソコン関係のことについて勉強し直したいなっていうのがあって、その時デジタルハリウッド大学っていう大学を見つけて、そこへ行くことを決心。バンドは脱退して大学に進学しました。

デジハリに入学したときに初めてAdobeのソフトを使ったりしてて、デジハリはクリエイティブ系と英語に特化した大学でその両方を履修していった感じかな。その時大学の提携プログラムでオーストラリアに留学したりもしました。
そこで英語の勉強したり、PhotoshopやIllustratorのソフト触ってWEBのデザインしたり紙媒体のデザインとかを勉強していましたね。
デジハリは今は御茶ノ水へ移転したけど当時は電化製品とアニメゲーム文化の聖地の秋葉原に校舎があって(笑)

パソコンの勉強となると理系でプログラミングの勉強って感じになっちゃうことが多いけどデザインとかそういったクリエイティブ系の勉強ができたのは良かったですね、英語も勉強できたし。そこで写真とかも興味がでてきて履修はしてなかったんだけど講師にお願いして写真の授業をこっそり受けさせてもらったりもして、一眼レフの使い方なども教えてもらったりしてました(笑)
デジハリの講師はその分野で働いてるスペシャリストが講師を務めてたから、実践的な視点から結構厳しい目で意見もらえたりして今考えるといい勉強だったな。

入職してからの生活

——イージーライダースでデザイナーをしてたと聞きましたがその経緯は?
デジハリ卒業後、職探ししてグラフィックデザインと写真撮影できる人がほしいということで未経験だけどイージーライダースに入れてもらって、そこでバイクのカタログや雑誌広告の制作と写真撮影をしてました。あとはWEBバナーや店舗用POP制作などをしてたかな。

——バイキチとかの雑誌媒体とかですよね?
そうそう。あとはクラブハーレーとかも多かった。カスタムした後のバイクを撮影したり、シートとかバックとかの小物ができてきたらそれの物撮りとかをしたり、社員をモデルに使ってバックとかTシャツのイメージ写真とか撮影してたかな。
でも上司が体育会系あがりでやんちゃな時代をすごした人が多くて(笑)
理不尽に感じることとかも多くてちょっと仕事を改めようと思って1年と少し働いてから別の仕事をすることになります。

——その後はどういったところに?
その後は、出版社にはいって、InDesignとかを使って書籍や雑誌の編集をしてました。簿記検定とか英語の問題集の本とかってあるじゃないですか?そういった本を制作してましたね。
InDesignはテキストボックスとかを作っておくと、文章を流し込みするだけで複数のページに渡って行間とかの設定項目が引き継がれるようなソフトで書籍制作には必須なソフトなんですけどはじめは慣れるまで難しかったけどページのレイアウトとかはイラストレーターとかで作成するより全然楽で、ある程度設定を作ってしまうと一括で全ページを編集できるっていうところが良かったですね。転職を期に新しいソフトの使い方等が学べたことは良かったですね。

そこは1年契約で仕事をして、その後はWEBデザインの会社に入りました。そこでは主にPhotoshopを使ってサイトバナーやサイトのTOPメインイメージのデザイン制作、設計図になるワイヤーフレームの作成をしたりしてクライアントに見せたり、コーダーさんに画像切り出したりっていう仕事をしてましたね。その後、友人から誘われてFREETELに入ったという感じです。

–FREETELで端末やSIMのパッケージデザインをされていましたがそれはどういう流れでやる感じになったんですか?
業務の中でやった感じだね、最初は何人かでやってたんだけど、途中から上司から紙媒体得意みたいだからよろしく!って言われて、ディレクションされながら作成していった感じかな。
かっこよくて、シンプルで端末ごとのイメージに合うもの、例えば安めの端末だったらポップでとっつきやすいデザインで、高級路線ならリッチな雰囲気がでるよう文字や背景を黒にしたりとかって感じで機種ごとにパッケージを作っていった感じだね。
SIMカードとかはギガ数とかでプランが別れてたから容量ごとに色味変えたりして展開していった感じ。他にもヨドバシやビックカメラの展示物やパネルはほとんどやってたね。

–パッケージだとスマホはKIWAMI「極」とかですよね?結構スペックが尖ってた気がします笑
そうそう、自社ブランドでスマホを出してたからそれのパッケージを作ってた。ユニーク過ぎて成功したのか失敗したのかわかんなかったけど尖ったものに果敢に挑戦していく社風だったね。(苦笑)
気づいたら後半のパッケージデザインはほとんどやってたかな。

これからの人生は

–そんな感じで進んできたわけですね。その後楽天に吸収されると(笑)
そうだね、吸収され携帯事業もなくなり。。なぜか自分は今ドイツにいると(笑)
ドイツは生まれた街ハイデルベルクに帰って、住んでみたいというのと単純にドイツ語を勉強したいと思って来た感じです。オーストラリアにいって英語勉強してた時に、母国語の一つでもあるドイツ語ももっと勉強したいなって強く思ったんだけど、8年経ってようやくそれが実現できている感じですね。原点に戻ってきて自分のいままでの人生を見つめ直すいい機会になったかな。
年明けの2019年からは日本へ戻るから、今後の仕事としては興味がでてきている写真の仕事か日独ハーフのバックグラウンドを活かせる職場を探しつつ、グラフィックデザインの仕事も平行してフリーでやっていける道が見つかればベストかなと思ってます。

–クリエイティブな仕事で輝き続けるロニーさん、これからの活躍も楽しみにしています。ありがとうございました。

Design work by Ronnie Ashio Hoshiai
http://designwork.ronnie-ashio.com/