//Yamamoto Moeha

Yamamoto Moeha

Moeha Yamamoto山本萌生(Yamamoto Moeha)
9歳よりバレエを始め、15歳でバレリーナを目指してモスクワへ留学。怪我をきっかけに一時帰国するも、リハビリを経てバレエ学校を卒業しKバレエカンパニーに入団。バレエ団を退団後京都で大学生活を送り、現在はモスクワにてバックステージガイドを務める。Mavita LLC,代表。
Mavita LLC』、『Instagram
NHK WORLD LOUGE

山本萌生さんの”マイストーリー”とは?

クリエイティブな仕事をしているクリエイターやアーティスト。現在の生き方に至るまでの原点やターニングポイントはどのようなものなのでしょうか。

日本とロシアのバレエへの価値観の違いに戸惑う

もともと、バレリーナを志して1997年にロシアに渡ったのですが、バレエに対する価値観の違いに衝撃を受けました。容姿のこととか、身体の条件とか、やっぱりロシアってそれだけ芸術が育つということは、そもそもエリート教育なんですよね。バレエに向いている人を集めて教育をするので、日本みたいにお稽古ごとで、なんとなくバレエをやっている私達なんて足元にも及ばないというか……壁はすごく高かったです。

ただ、最初に劇場に行って舞台を観た時にもう圧倒されてしまって!老若男女が楽しむ場所として国民に認知されている環境が素晴らしい。特にロシアは寒いので、コンサートホールや劇場など室内で楽しめるエンターテイメントが栄えているんですよね。

日本では男性は肩身が狭い感じで奥さんの付き添いで来てたり、とても来にくいんだなぁって思ったんです。評価のされ方と根付き方の違いに愕然として、もったいない!っていう衝動から、ロシアの劇場とバレエの関係性を追求したいという意欲が湧きました。

身体の故障を機会に自己を見つめ直させられた

17歳のとき、バレエ留学時代に、ジャンプして着地に失敗して、左の足首を捻挫してしまったんです。氷水で冷やしながら、何とか足が動かせる状態でレッスンを続けてたんですが、2〜3ヶ月後に普段の生活で階段も登れない状況になってしまって……片足で自分の体重が支えられないという状態でも、レッスンは気力で続けていました。もはや身体から分泌されるアドレナリンだけでやっていた感じで、感覚が麻痺してたみたいです。当時モスクワにはMRIがまだなく、海外では先生とコミュニケーションも取れていなかったので、仕方がなく日本へ一時帰国することになりました。


両足首の筋をつなぐ手術をして、術後1ヶ月半くらい車椅子で生活しました。その怪我で目が醒めたというか、そこから、このまま日本に帰らずしっかり卒業したいと思い、地元の福井で半年リハビリした後、モスクワに戻りました。留年した1年下のクラスで通学したんですが、やはり自身にはロシア式のバレエは自身の身体にあっていなかったこともあり、足の怪我は再発してしまって…そんな中でも、なんとか国家試験である卒業試験を受けて卒業できました。

Kバレエカンパニーでダンサー復帰

卒業後、東京に戻り、怪我のリハビリをしていたのですが、その時にたまたまKバレエカンパニーのチラシをいただいたのがきっかけです。当時19〜20歳くらいだったと思うんですけど日本のバレエ団がどんな感じか知りたかったこともあって受けてみました。当時Kバレエカンパニーはレベルがとても高いところだったので自分が受かることはないだろうけど経験としてオーディションに慣れておこうと思って、オーディションを受けたんです。

200人くらい書類選考がされた厳しいオーディションだったんですが、私にとっては怪我して以来、思いっきり自由に踊っていい場所だったので、失敗しても気にせず、足の痛みも感じない環境でのびのび踊ることができて、まさか受かるとは思ってもみませんでした。

ちょうど熊川哲也さんが30歳を期にスタジオを構えてこれからやっていくという時期で、オープニングダンサーの一員になりました。それまでは100人1人受かるような倍率でしたが、オープニングダンサーが必要な時期とかさなり、幸いにもkカンパニーで舞台に立てるようになりました。私の中では受かった喜びよりも、足が傷まず踊れるということが何より嬉しかったです!

プレイヤーと講師の葛藤

ダンサー復帰したことはとても喜ばしいことだったのですが、怪我の経験もあってか「ダンサーとして生きていくんだ!」という気持ちより「バレエとは?」みたいな、「自分はどういうふうに生きていけばいいのか」という、ちょっと俯瞰して物事を見ているような自分がいました。プロのダンサーとして「私が主役!私を見て!」というような意識は無くて、自分自身が楽しくバレエが出来ればいいな、というスタンスでした。

そんな意識があったからなのか、世界に通用する人材を育てるためにスクール事業を検討していた熊川哲也さんに講師にならないか?という話をいただきました。講師のオファーは、最初は抵抗はあったものの、教えることにも興味があったのでいろいろ考えながらもそういうバレエとの関わり方もありかなと思い、引き受けることにしました。

それでも、自分の足が治ったこともあって「ダンサーとしてまだ踊りたい」という気持ちがあったことや、熊川哲也さん自身が目指しているものと現実とのギャップに違和感を感じてぶつかったりして、暫く葛藤の日々が続きました。

自身が迎えた執着からの開放

このままKバレエカンパニーで続けるのは難しいかなと思い、思い切って海外のカンパニーで挑戦しようかなと思い退団を決めようとした時に熊川哲也さんに呼び出されて「ダンサーとして認めていないから講師にしたわけじゃない。そこは誤解しないでほしい。一ヶ月後にオーディションがあるから正規のルートをたどって戻ってくるといい」と言われ、再度Kバレエカンパニーのオーディションを受けて合格。辞めた人間が戻ってきてと自分で勝手にバツが悪く感じていましたが、途中から吹っ切れてのびのび踊れるようになってから、舞台に立つ機会が出来、次第にいろんな役をもらえるようになりました。
「楽しい!踊れた!」っていう感情が満たされた瞬間にバレエに対する執着みたいなものが「ふっ」と無くなり、自身の中でバレエに対して「ここまでなんだな」と唐突に理解してしまったんです。
そのような心理状態になってしまうと、ダンサーとしてバレエに関わっていくのはもうこれでお終いにしようと思うようになりました。